鎌倉幕府を築き、武士による支配を確立した源頼朝。その祖先は現在の大阪府羽曳野市壺井(つぼい)・通法寺(つうほうじ)地区を拠点とした河内源氏です。羽曳野市壺井周辺に残る史跡を紹介します。今回は河内源氏の氏神様である壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)です。
羽曳野市は南大阪・南河内にある大阪市から南東の方角にある大阪郊外のベッドタウンです。
羽曳野市の東の端は奈良県境に接する山間部です。そこは名産品のぶどう畑やみかん畑が広がる地域です。その山間部への入り口あたりにあるのが羽曳野市壺井、通法寺地区で河内源氏の発祥の地です。
このあたりは大阪郊外とは思えないのどかな田園風景が広がっています。遠くに見える大きい山は葛城山です。(左手の手前の小さい山の斜面に木がなく草原になっているところは壺井丸山古墳です)
河内源氏と壺井八幡宮
河内源氏とは源氏一族の中でも源頼朝などを生んだ武門源氏と呼ばれる武家社会の中軸となっていく血筋(流)の一族です。源氏の姓を持つ氏族の中でも第56代天皇清和天皇(西暦850~881年)の子から分かれた子孫は清和源氏と呼ばれます。河内源氏はその清和源氏から武門=武士の本流として発展した一族です。
河内源氏の祖、源頼信はこの河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)付近に所領を築き、館を構えていたと考えられています。その後、源頼信、源頼義、源義家と三代にわたってこの地に住んだとされています(そのため「河内源氏」と呼ばれるようになった)。
武家にとって経済的な基盤がないとなんの活動もできないので、所領の所在、規模は生命線とでも言えるものです。
その源頼信の子、源頼義が康平7年(西暦1034年:平安時代)に石清水八幡宮の神霊を勧請して建てたのが壺井八幡宮の始まりとされています。その河内源氏の氏神様として建てられた壺井八幡宮は現在も残っています。
長い参道の石段
壺井八幡宮は金剛生駒山地の端にある低山の中に建てられており、鳥居まで長い石段の参道を登ります。
急な石段を上がって振り返ると木々の間から古い集落の家並みと田園風景が見えて、とても大阪近郊とは思えないのどかな風景です。
クスノキの巨木
石段を登り切った鳥居のすぐよこにあるクスノキの巨木です。樹齢は伝承では約1000年といわれています。樹齢1000年なら日本史で言えば平安時代後期の河内源氏がこの地を拠点としたころから、このクスノキはここに生きてきたことになります。
本殿
壺井八幡宮は建立以来、たびたび兵火に焼かれており、現在の本殿は元禄14年(1701年:江戸時代)に徳川綱吉が柳沢吉保に命じて再建したものです。
壺井権現社
鳥居から正面に八幡宮本殿があり、その右に壺井権現社があります。源義家の子、源義時によって源氏三代(頼信、頼義、義家)をまつる崇廟として壺井権現社(壺井宮)が作られました。六孫王神社(京都市)、多田神社(兵庫県川西市)とともに源氏三神社の一つとされています。
壺井水
壺井八幡宮へ上る参道の石段の上り口の左手に古い井戸があります。壺井水と称されています。
1057年、前九年の役の際、源義家が陸奥の国(東北地方)で賊と戦う際に、干ばつで飲み水が不足し敗北の危機にありました。その際、義家が天に礼拝し、岩盤に弓矢を打てばそこから清水が湧き出て、その水のおかげで戦いに勝利できたと言われています。
その際の清水を壺に入れて陸奥の国から持ち帰り、井戸を掘り、その壺を埋めて壺井水と称したとされています。
それ以来、この地の地名は香呂峰から壺井へ改められたとのことです。
この井戸は現在でも保存されているとのことです。
羽曳野市壺井八幡宮のアクセス
壺井八幡宮の住所:大阪府羽曳野市壺井605-2
近鉄南大阪線上ノ太子駅から壷井八幡宮まで徒歩で1.4キロ20分ほどです。
近鉄長野線喜志駅から4市町村バス(喜志循環線か阪南線)に乗車して太子四つ辻下車。壷井八幡宮まで徒歩1.3キロ20分ほどです。
壷井八幡宮参道階段下に数台の駐車場がありますが、集落中を抜ける道が非常に狭隘なので、バス停、駅、コインパーキングから歩かれることをお勧めします。
参考
このサイトの作成で参考にさせていただいている書籍
- 『大阪府の歴史散歩 下』山川出版社
- 『新版県史27 大阪府の歴史』山川出版社
です。ぜひご一読ください。