楠木正成 簡単まとめ 南大阪・南河内の歴史上の有名人 無名の武士から鎌倉幕府終焉の立役者へ

観心寺前の楠木正成の馬に乗った像 南大阪のスポット案内

南河内に来ると時々、見かけるのが楠木正成(くすのきまさしげ)にちなんだ看板や地名。名前は南大阪だけでなく全国的にも知られた武将ですが、どんな人だったかは意外と知られていないのでは。楠木正成の人とその時代をまとめてみます。(諸説あります)

地元では楠公(なんこう)さんとか大楠公(だいなんこう)などと呼ばれて親しまれています。

楠木正成の生まれは不明?

楠木正成が出てくる物語・作品としては『太平記』『吾妻鏡』などがあります。鎌倉幕府が崩壊し、室町幕府(室町時代)へ移っていく時代です。それらの書物や各地に残る古文書から楠木正成という人物の生い立ち、居所、人となりなどが推測されています。また、楠木正成が残した城郭などの遺構の発掘調査も行われています。

楠木正成が生まれたとされているのは1294年ごろとされており、出自が無名で不明瞭なので、正確なことはわからず、確定はされていません。亡くなったのは1336年で、現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区あたりでの「湊川の戦い」です。

楠木正成が生まれた時代は鎌倉時代の末期でした。鎌倉幕府が崩壊し、室町幕府が成立していく過程、日本史では鎌倉時代から室町時代(南北朝時代)へと移り変わっていく時代に楠木正成は生きたのでした。

楠木正成が生きた時代

1185年ごろ、源氏―源頼朝が鎌倉に鎌倉幕府を開き、それまでの貴族に寄った朝廷の政治から、初めて本格的な武士による政権が日本に成立しました。その時代を鎌倉時代と呼んでいます。しかし、源頼朝の妻である北条政子、北条時頼ら北条氏が執権として力を徐々に強めていき専制支配が強まっていきます。御家人と呼ばれる全国の武士たちの生活が立ち行かなくなり、また、地震などの自然災害があり庶民の生活も困窮を深めていきます。また、天皇家の後継について持明院統と大覚寺統という二つの系統があらわれ、争うようになりました。

つまり、日本が大きく変わらずにはいられない激変期に彼は活躍したのでした。

楠木正成の活躍

このころ、楠木正成は土豪の武士として河内の地で頭角を現していました。この中世の時代に「悪党」と呼ばれていた人たちは単に「悪者」という意味とは違い、荘園領主に反抗して地域の有力者の支配権を確立してゆく「武士」のことも指しました。

鎌倉時代末期の激動の時代の中で、天皇家の皇統が二つに分かれているとき、鎌倉幕府の支配に対抗していた後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)の側に多くの幕府に反発をもった武士が結集しました。楠木正成はその武士の棟梁の一人でした。つまり楠木正成は当時の政権―鎌倉幕府に反対する反体制派だったわけです。

南朝からの討幕の動きが封じられるなか、元弘の変(1331年)が勃発。このとき楠木正成が赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)で兵をあげたのが、楠木正成のたたかいの始まりです。楠木正成らの粘り強いたたかいで、鎌倉幕府が滅び1333年から建武の新政が始まります。

建武の新政では正成は重責に抜擢されます。

下赤坂城跡の石碑
千早赤阪村の赤坂(下赤坂)城址

しかし、足利尊氏の裏切りと、新たな政治への不満から(朝廷は平安時代の朝廷の治世に戻そうとした)建武の新政は短命に終わりました。

楠木正成の最後は1336年(建武3年)の現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区にあたる地域での新田義貞(にったよしさだ)とともにいどんだ湊川の戦いでした。西日本から攻めのぼってくる足利軍を迎え打つための布陣でしたが、追い込まれて自害して生涯を終えました。

楠木正成は勢力状況を客観視し、足利尊氏との和睦を朝廷に進言しましたが、聞き入れられず、勝ち目のない戦いを命じられ湊川に進んだのでした。最後は弟の楠木正季と刺し違えたと伝えられています。

楠木正成は、鎌倉幕府への失望と反発が充満する中で鎌倉幕府を滅ぼす先陣を切った人なのでした。鎌倉幕府が滅び、建武の新政が起こったのちに、室町幕府が成立してゆく大きな日本史の変動の中のキーマンだったわけです。

楠木正成は由緒ある家系の出身ではないため、残されている記録や遺品、遺跡が乏しく(特に生まれてから南朝側について戦うまで)、多くの点で現代でも諸説があります。

楠木正成のゆかりの地

千早赤阪村 楠木正成生誕の地

楠木正成の生誕の地と伝えられているのが千早赤阪村水分にある「楠木正成楠公誕生地」です。現在はすぐそばに千早赤阪村立郷土資料館が建っています。豊臣秀吉の命により作られた祠に、明治時代に大久保利通の勧めで碑が建てられたとのことです。

千早赤阪村の楠木正成の誕生地の石碑
千早赤阪村の楠木正成の誕生地

周辺は「道の駅ちはやあかさか」や村の施設の「くすのきホール」などが整備されています。村立郷土資料館では楠木正成にちなんだ展示があります。

すぐ近くに「楠公産湯の井戸」がありますが、現在は災害被害で立ち入り禁止です。

また、近くには奉建塔(楠公六百年記念塔)があります。

楠木正成の城跡としては下赤坂城、上赤坂城、千早城などがあります。

他に楠木正成にちなんだ史跡として寄手塚、身方塚「石造五輪塔」、建水分神社・南木神社があります。

南大阪・南河内の楠木正成にゆかりのある史跡

千早赤阪村以外で南大阪・南河内には

観心寺(河内長野市)、楠妣庵観音寺(富田林市)、久米田寺(岸和田市)

観心寺 門から石階段を望む
河内長野市 観心寺

などがあります。

他の地域の楠木正成にゆかりある史跡

南大阪エリア以外のゆかりのある史跡としては主なものは

湊川神社(兵庫県神戸市)、桜井駅跡(大阪府三島郡島本町)、七社神社(岐阜県山県市)、茨木城 (大阪府茨木市)、春日大社(奈良県奈良市)、平泉寺白山神社(福井県勝山市)、皇居外苑楠公像(東京都千代田区)

などがあります。

↓大阪府下の楠木正成に関する場所は大阪府のWEBサイトにもまとめられています。↓

〔大阪府〕楠木正成・楠正行ゆかりの地

アクセス

楠木正成生誕の地(千早赤坂村)へは天王寺(近鉄阿部野橋)から近鉄南大阪線で富田林駅下車。路線バス(4市町村コミュニティバス)の千早線(千早赤阪村立中学校前行:南海バス、千早赤阪村バスが運行)で千早赤阪村役場下車。徒歩5分ほど。

天王寺へは新大阪駅、関西空港、伊丹空港から電車、地下鉄、バスが直行しています。

2023年12月の金剛バス廃止により4市町村による新たな交通サービスにより路線バスの運行が確保されています。時刻、路線等の変更に気をつけていただくとともに、公共交通の利用をお願いします。

車では国道309号線から道の駅ちはやあかさかへお進みください。道の駅の駐車場が利用できます。

参考

この記事の参考 ウキペディア 朝日文庫『南北朝』林屋辰三郎著、中公文庫『楠木正成』植村清二著 ほか

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